賀川豊彦物語 賀川豊彦って、どんな人?

Vol.2 社会運動の先頭で

献身的な救済活動を続けながらも、状況は進展せず、個人の力の限界を感じた豊彦は答えを求めてアメリカへ。そこで「根本的な解決には社会の仕組みづくりが必要」と痛感し、帰国後さまざまな運動の先頭に立ちました。

アメリカ留学で学んだこと
豊彦は、食堂や無料診療所をつくり、時には自らの衣服をさし出すなど貧しい人を支え続けていましたが、やがてそのような一時的な救済活動では根本的な貧困がなくならないという厳しさを感じます。その解決策を見つけるため、大正3年(1914年)、アメリカプリンストン神学校に単身留学。ハルもまた、共立女子神学校に入学しました。豊彦は、渡米先のニューヨークで労働者6万人が団結して資本家に対抗する社会運動の光景を目の当たりにし、大きな衝撃を受けます。この体験から、「目先の困っている人を助けるだけでなく、貧困を防ぐ社会の仕組みづくりこそが大切だ」ということを痛感しました。

労働運動や農民運動を牽引
アメリカで幅広く追求した学問と、労働者が団結して資本家に対抗する姿から、日本にも“労働運動”が必要と考えるようになりました。1917年(大正6年)帰国後まず取り組んだことは、神学校を卒業したハルとともに貧しい人々のための無料診療所の開設でした。その後、「救貧から防貧へ」をスローガンに労働運動、農民運動などを牽引。これを機に、大正デモクラシーの先頭に立ち、理想社会の建設をめざしました。
「神戸購買組合」「灘購買組合」の創設
1920年(大正9年)、第一次世界大戦終結後の日本は不況の真っただ中。生活必需品の高値で人々の生活が苦しくなる中、仕事もなく、たとえ仕事があっても低賃金での長時間労働を強いられる労働者が増えていました。豊彦は、生活安定こそが第一とし、人々が互いに協同し、生活を守り合う消費組合「神戸購買組合」「灘購買組合」の創設に尽力しました。困っている人々を救うには、物質的援助だけではなくみんながともに助け合うことが必要だという信念を広めるために、各地で演説会などの啓蒙活動を行いました。

労働争議と挫折、そして農民運動
アメリカ留学でニューヨークの6万人の労働者デモを体験して、工場の閉鎖や賃金の引き下げ、リストラなどで生活が脅かされていた労働者のために、労働運動の必要性を強く感じるようになりました。1921年(大正10年)、神戸の三菱、川崎の二つの造船所で大規模な労働争議が起こった時には、豊彦は3万人以上の労働者を率いてデモを行いました。しかし、この労働争議は失敗に終わり、これをきっかけに労働運動は力に訴える方針に傾きます。「暴力は人間解放の道ではない」という豊彦は組合の内部から非難を浴び労働運動から遠ざかります。その後、農民運動に取り組み、日本農民組合を組織し全国各地に出向いて小作争議を指導しました。また、1927年(昭和2年)、兵庫県瓦木村の自宅で農民福音学校を開き、農村の青年たちの教育に力を注ぎました。

300冊を超える著作
豊彦は作家としても意欲的に活動し、生涯で300冊を超える大量の著作を世に出しました。テーマは宗教、哲学から、社会、自然科学まで多岐に渡り、さらに挿し絵も自分で描く多彩ぶりには、周囲の人々も驚きました。
なかでも1920年(大正9年)に発表した自伝的小説「死線を越えて」は、人々に多くの感動を与え、100万部を超える空前のベストセラーに。しかし手にした莫大な印税のほとんどを組合運動をはじめとする社会事業に投じたため、質素な生活は変わることはありませんでした。

Vol.3 世界の平和を願って

  • Vol.1 スラム街の聖者
  • Vol.2 社会運動の先頭で
  • Vol.3 世界の平和を願って
  • Vol.4 灘・神戸生協の創設
  • Vol.5 生協活動でめざした平和
  • Vol.6 生協活動の広がり

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